ぜろ。

 

長い時間を過ごしたひとと

一緒に過ごしていたなかでできた傷

ずいぶん長い間癒えないなと思っていた傷が

かさぶたになって剥がれた

 

最後に一緒にいたときにあったものが、

もういまの私にはなくて、

ちゃんと時間は経っているし、

私はもう、すでに少し違う人間になっている

あちらももう、少し違う人間になっている

 

でも、死んだら会いたいも会いたくないも思えなくなるんだから

とおばちゃんのことも考える

 

大好きなひとを自分の手で殺めてしまうひとは、

大好きなひととの時間を留めておきたくて殺すのだろうか

流動的な現実のなかにそのひとが生きていると、

物理的な距離や心理的な距離の変動が怖くなってしまうからなのだろうか

 

 

 

哲学と映画は、現実に向き合わせるような逃避させるような危ういところにひとを置く

 

ひさびさに、いっちゃったなー。

そのはちじゅうご

メモ:村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド

 

それから彼女はクローゼットの扉をひとつ開け、私の手を引いてその中に押し込んでから中のライトを点け、後ろ手でドアを閉めた。ドアの中は洋服だんすになっていた。洋服だんすとはいっても洋服の姿はなく、コート・ハンガーや防虫ボールがいくつか下がっているだけだ。たぶんこれはただの洋服だんすではなく、洋服だんすを装った秘密の通路か何かだろうとわたしは想像した。何故なら私が雨合羽を着せられて洋服だんすに押し込まれる意味なんて何もないからだ。

 

 

私は意を決してぽっかりと口をあけた闇の中に片脚を踏み入れた。それから体を前にかがめて頭と肩を中に入れ、最後に残りの脚を引き込んだ。ごわごわとした雨合羽に体をくるまれていると、これはなかなか骨の折れる作業だったが、どうにか私は自分の体を洋服だんすから壁の向う側に移し終えた。

 

 

 

 

 

そのはちじゅうよん

わたしはたぶん

 

いま出会うことのできたひとたちと

出会うことのない人生だったとしても

やりたいことは変わらずで

でもいま出会えているひとたちと

出会えているからこそできていることが

いっぱいあって

いまやっていることは

いまやれていることは

やりたかったことであることにほかならないなぁと

 

気づき、

 

ぐぅの音もでないくらいに

 

 

ありがたき

 

そのはちじゅう

わたしは「ずるい」って言葉を

誉め言葉というか

羨ましいとか素敵とか

そういうニュアンスで使うのですが、

うまく伝わって笑いになるときと

うまく伝わらず え? って顔をされるときがあります。

 

今回は、これを、より、後者の伝わらない相手に

伝わるようにするにはどう変換する必要があるか

姉と話し合った結果を書きます。

 

「その考えには及ばなかった!悔しい!」

 

 

です。

 

 

ちなみに複数人で話していると、前者の感覚を持ちながら、状況として「ずるい」という言葉は的さないという判断から笑うに笑えないという選択をするひとがたまにいるので、そんなひとのために

「(私)ずるい!」

→「(相手)あはっ、えっ、ずっ…?」

→「(私)いやーもうずるいです。ずるいいです。ずる良い。」

と言うと、安心して

→「(相手)ずる良いねwずるいいかぁw」

と笑ってくれることがあります。

 

その中間的なひとたちの気苦労を慮り、

また前述の後者のように伝わらない上に私が失礼な言葉遣いをしたという印象だけ持ち帰る方がいらっしゃることを自覚し、

それは不本意だなという気持ちから、

今回の議論に至りました。

 

 

簡略化して「ずるい!」と言うのではなく

「その考えには及ばなかったですー!悔しいー!」

と笑えるひとはなんだか素敵だなと思いました。

 

そちら側へいきたいものです。

そのななじゅうきゅう

身近なひと

遠いひと

いつも顔を合わせるひと

疎遠になったひと

 

しょっちゅう会うからって適当になっていい訳じゃないし

 

なかなか会えないからって気負う必要もなし

 

″そのひと″とどう過ごしたいか

 

という気持ちがなにより大切で

 

″そのひと″との時間を

 

どういう時間にしたいかが大切で

 

でも、そんなこと考えていても

 

相手がこちらとどう過ごすことを目的としているか

 

によっていとも簡単に理想は夢想に近づいてしまう

 

だども

 

だからこそ

 

こちらの目的とあちらの目的が

 

ガチッと重なると

 

それはもう至福で

 

その至福回数が多いと

 

「そのひとと会えること」

=「そのひとの時間を分けてもらえること」

 

がすごく贅沢なものに感じられる訳ですね

 

贅沢は美味しいから欲しくなっちゃうし

 

食べ過ぎそうになるし

 

求めすぎそうになるし

 

そこらへんで手に入るほかのなにか

 

よりよっぽど気を使うのだけれど

 

その″贅沢なひと″が存在してくれてるだけで

 

自分の人生ハッピーな方だなって思える訳で

 

うん。

 

ただ贅沢なひとに会えば必ずいつだって贅沢に思えるかって言えばそうじゃないのも確か

 

自分が怠けていたり

自分がどこか後ろめたい気持ちがあったり

自分のエゴが出てきた暁には

 

はい、

 

贅沢な時間はどんどん離れて行きます

 

 

このひとにとっても

私にとってもいい時間にしたい

 

と願って、行動して

 

たまたま相手も同じように思ってくれていたら

 

はい

 

贅沢な時間になります

 

つまるところ

 

相手にも相手の都合があって

 

自分には自分の都合があって

 

余裕の有無にもムラがある

 

つまるところ、こちらが余裕をキープしていられれば

 

それ相応にあちらの余裕との合致する確率が上がるってもんで

 

 

おーけー。

 

人間余裕が大事。

 

 

余裕こそ、贅沢。

 

 

余裕を生む努力

 

ですね。